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セイル・オンヒストリー

始まり

納屋の前で、苗箱に種を蒔く――昭和51年、創業

かいわれ大根を代表とするスプラウト野菜の専門水耕農場『セイルオン』。
『かいわれ大根』との偶然の出会いから、全てが始まった。

昔の会社周辺の風景

昭和51年(1976年)、福岡大同青果(福岡中央卸売市場)に現社長の父がびわを売りに行った帰り道、市場の前に店を構えていた種苗会社へ立ち寄ると、かいわれ大根の種が売っていたのでそれを買って帰って来た。

もともとは果樹の他に養豚などもやっていたのだが、当時、会社のある岡垣町高倉周辺には住宅地が開発され、養豚を続けて行くには難しい環境となってきたことから、昭和50年ころに養豚は辞めていた。

生計を立てるために何かしら新しいことを始めなければという思いがあったのだろう。

父はかいわれ大根の種子と一緒に、木箱に入ったかいわれ大根も買って帰ってきた。当時のかいわれ大根は料亭向けの出荷が主で、木箱に入って流通しており、高級品の扱いだった。かいわれ大根は荷姿も美しく、休日がほとんど取れない畜産業とはまた違った仕事だろうと思ったのではないだろうか。

父が家に帰ってくると、木箱に入ったかいわれ大根とその種子を見せながら、「これを作ってみんか」と言った。

木箱入りかいわれ
(観山荘別館HPより転載)

現社長は根っからの農家とはいえ、かいわれ大根を作った経験は全くなかった。

とりあえず作り方は種苗会社に尋ねて、自宅の前にあった納屋の軒下に母と一緒に水稲用の苗箱を20枚ほど並べて、砂を入れて種を蒔いて作ってみた。このとき、21歳。現在に至るまで約45年。

これが全ての始まりだった。

初めて種を蒔いた納屋の前

書籍から辿る、かいわれの歴史

スプラウト野菜の走り、かいわれ大根。
そのかいわれ大根を中心に、スプラウト野菜の歴史を紐解いてみる。

かいわれ大根を中心に、スプラウト業界全体がどのように発展してきたか、まずその歴史について触れておきたい。

最近人気の“スプラウト野菜”とは、野菜の新芽のこと。発芽して間もない時期に収穫するため発芽野菜とも言われる。最初に広まったのがかいわれ大根だった。

『野菜の日本史』(青葉高,2000,八坂書房)を元に、まずかいわれ大根の歴史を遡ってみる。すると、古くは平安時代の書物に登場する。平安時代中期の漢和辞書である『和名類聚抄』の巻第十六飲食部 菜羹(さいこう)類において、黄菜という区分の中に「佐波夜介(さはやけ)」として紹介されている。

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黄菜とはダイコンなどの若芽で、サワヤケと呼び、現在のカイワレダイコンに当るものと思われる。(中略)本来辛味の強い特性をもっている温菘(読み:こほね,野大根)を用いて作ったと記され、辛い品種を選んでいたことは注目に値する。平安中期の『宇津保物語』には、「厨女黒木に飯笥に入れて さわやけの汁して持て来たり」、とあり、当時ダイコンのさわやけはよく用いられていたようである。」 (青葉高,2000,p.89)
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野菜の日本史(青葉高,2000,八坂書房)

このかいわれ大根が、一般の消費者へ流通するようになったのはおそらく昭和50年代になってから。それ以前には、もともと関西方面で料亭向けに高級品として流通していたようだった。それを福岡へ持ち込んだのが、作家の檀一雄氏だった。(諸説あり)

壇一雄さんは『壇流キッチン』(壇一雄,1975,中公文庫)という書籍を出版されるほど料理に造詣が深い方で、壇さんが福岡県の能古島へかいわれを持ってきたのが、おそらく昭和40年代。このときには既に能古島でかいわれ大根が作られていたそうだ。そして、弊社の創業時(昭和51年頃)には、発祥地の関西のほか、九州では能古島以外の地域でも既にかいわれ大根が作られており、昭和50年代以降になると、九州のほかにも関東地方や中国地方でかいわれ大根の生産者が次々と法人が設立された。

その後、1986(昭和61)年9月には、かいわれ大根のさらなる普及を目指して、日本各地の生産者が集まり日本かいわれ協会が発足したのだった。およそ1970年末頃~1980年半ばまでの約15年間で、マスメディアに取り上げられるなどして急速にかいわれ大根が市場に浸透していった。

その後、かいわれ大根に次いでメジャーになったのが豆苗だった。豆苗が登場したのは、おそらく平成10年半ば頃。もともと愛知方面の農家が細々と生産していた。この頃、スプラウト野菜の品種も増えたことから、前述の日本かいわれ協会は平成17年に日本スプラウト協会へ名称変更している。ここからも、かいわれ大根がスプラウト野菜のトップランナーであったことがうかがえる。そして豆苗の次に、「健康」をキーワードに次第に認知されてきたのが、ブロッコリースプラウト。スルフォラファンという成分がダイエットに効くといった内容や、がんを抑えるといった効果がテレビ番組で取りあげられたことで、広く知られるようになった。

スプラウト野菜は全部で10種類以上ある中で、かいわれ大根以外にようやく認知され始めたのはこの2品種くらいだろう。学術の領域では、アブラナ科植物にはスルフォラファンのようなイソチオシアネートと総称される成分が必ず含まれていることが知られており、ブロッコリースプラウトの他にも健康に良い栄養成分を秘めたスプラウトは必ずあると考える。そういった意味でも、スプラウト野菜はまだまだ成長の途中にあると考えている。


とりあえずやってみる
―かいわれ大根の事業化へ向けて

前述の通り、とりあえず苗箱に種を蒔いて作ってはみたものの、大量に作るとなると話は別だ。

当時、既に福岡県の津屋崎や神湊でかいわれ大根を作っている農家の方がいたので、作り方を聞きに行った。早速、そこで使われていた三菱やクボタの水耕栽培セットを後継者育成資金の150万円を元手に100坪分ほど設置して礫耕用に改造し、会社の敷地内の養豚場の隣でかいわれ大根を作り始めた。

礫耕用礫のイメージ写真

しかし、当初は栽培に使用する水が循環式だった。この場合、灌水後の水の除菌処理が不十分だと水中に雑菌が繁殖しやすく、作物が病気になりやすいという欠点がある。実際、病気に苦労したこともあり、色々と対策を講じてはみたものの、結果この方式での栽培はあまり長くは続けなかった。

その後、礫耕からステンレス製の金網に種子を蒔く方法に変えた。その後も改良を続け、ざっくり流れをまとめると、礫耕⇒金網⇒発泡容器(ウレタン培地)⇒発泡容器(根絡み栽培)⇒プラスチック栽培容器(根絡み栽培)の順番で、いまに至るまで栽培方式が移り変わってきた。当時の写真がないため詳述できないことが残念だが、その他にも細かい栽培方式の変更はこの間にいくつもあった。当社でようやく発泡スチロール製の栽培容器からプラスチックの栽培容器に変わったのは、2020年のことだ。

一時期の多段式栽培の様子

かいわれに次いで栽培を始めた豆苗も同様に、2019年に発泡スチロールの栽培容器からプラスチック製の栽培容器に変えた。発泡スチロール製の栽培容器は、隙間に根っこや茎などの残渣が残りやすく、高水圧で洗浄しようとした際に、容器が水圧に耐えきれない可能性もある。また、後述するように作業の機械化を進める上でも、栽培容器に持ち手を付ける必要があった。こうした課題を克服するため、プラスチック製の栽培容器へと変更したのだった。

礫耕のときには木箱での出荷だったが、金網を使った栽培では、2つ折のパックに入れて出荷していた。いまのような荷姿になったのは、ウレタン培地を使った栽培方式になってからである。

当時の作業風景

かいわれ業界の発展と競争

ウレタン培地を使ったかいわれ大根の栽培に一番最初に成功したのは、福岡県南部にあった会社だった。曖昧ながら、1985(昭和60)年より少し前の頃だったか。これをきっかけに、ウレタン培地を使った栽培が急速に業界全体へ広まった。

その後しばらくして、今度はウレタンなどの培地を一切使わずに、かいわれ大根の根っこを絡ませて、絡んだ根っこを培地代わりに栽培する新たな栽培方式が登場した。いまでも、スプラウト野菜の栽培方法はこの培地を使った栽培方法か培地を使わない栽培方法かの2種類に大別できると思われる。その培地を使わない栽培方法に一番初めに成功したのは、静岡県に本社をおいていた会社だった。その会社の設備は、大手自動車メーカーの関連会社が作った設備で、そこにとある商社(上場企業,既に廃業)も提携して生産を行っていた。この会社はフランチャイズ方式で全国に支社を作り、かいわれ大根を生産した。かいわれ大根の普及に非常に大きく貢献されたと言えるだろう。

同じ頃に、当社でも独自に栽培容器に改良を加え、培地を使わない栽培方法を実現した。その際、栽培方法の特許を巡ってクレームをつけられるなど想定外のトラブルもあったが、独自の栽培方法であることを立証し、先方から取り下げとなった。

こうして企業同士の競争もありつつ、その広がりとともに栽培方法も改良が重ねられ、業界全体として販売額が増えていった。余談だが、一昔前にお酢のテレビCMでコメデイアンの二人がかいわれ手巻き寿司を作っていたのは鮮明に覚えている。しかし、最近ではテレビCMでかいわれ大根を聞くことはめっぽうない。それくらい、平成の1桁のころはかいわれ大根が当たり前に食される時代だったと思う。しかし、後述する食中毒事件の風評被害を受け、一気に業界全体が苦境に立たされることになる。そしてそれが、次なるスプラウト野菜である豆苗の登場にもつながっていくのだった。


停滞期
―風評被害による未曾有の危機

O-157食中毒事件。
おそらく、30代以上の方なら聞き覚えがあるだろう。
それが風評被害として襲いかかったとき、すさまじい打撃を被ることになる。

話をかいわれ大根の歴史へ戻そう。生産者同士の競争もあり、栽培方式は次第に移り変わり、平成に入ってからはかいわれ大根の認知度も益々上がっていった。かいわれ大根の手巻き寿司がCMに出ていたほどである。このまま順調に進むと、かいわれ業界の誰もがきっとそう思っていた。そこに、突然の嵐がやってきた。昭和生まれの方なら、平成8年のO-157食中毒事件を覚えている方もいるだろう。結論から言うと、かいわれ大根は全くの風評被害の被害者だった。それがどういうことかかいわれ大根が売名政治家によって犯人に仕立て上げられ、かいわれ業界全体は言い表せないほどの大打撃を被った。その惨憺たる状況は当社でも例外ではなく、その年の売上は5分の1まで落ち込んだ。周囲には、「もう立ち直れないだろう。」などと言う人までいたそうだ。それくらい、大変な状況であることに違いは無かった。ここで諦めていたら、全て終わっていた。

しかし、諦めなかった。「そのときどきで最善を尽くす。いま出来ることをやる。先人たちと同じように。」何から何まで社長一人でやったこともあった。ようやく従前と同等の水準にまで売上が回復するには、その後およそ10年余りという長い歳月が必要であった。この食中毒事件の顛末については、書籍や当時の新聞などでも詳報されているのであえてここでは詳しく触れない。ただ、最後は最高裁にまで持ち込まれた裁判では、結果としてかいわれ業界は勝訴により無実を勝ち取っているが、争っている当時はその保証はなかった。


再起を果たして
―事業承継と、高品質の追求

業績の回復後の新たな問題と対峙。
新たな体制を作り、更なる高品質な商品の開発をめざす。

新しくなったハウスの内観

平成8年に、それまでの5分の1に減った売上も、平成20年代前半にはO-157事件以前の水準にまで回復し、業績は順調に推移していた。そしてこの間に、加熱調理にも向くスプラウト野菜として豆苗の栽培を開始。ただ先述の通り、豆苗がブームになるのは作り始めてから10年以上が経った平成30年頃だった。そして、平成25年頃には後継者不在のため会社の売却も検討されていた。しかしその後、平成28年に後継者が決定し、目下事業承継を進めながら現在に至っている。

新しくなったハウスの外観1
新しくなったハウスの外観2

これをきっかけに、向こう数十年の事業継続を見据えて、既存の生産設備を全面的に建て替えることにした。新しいハウスは、これまでの経験をもとに高品質なスプラウトをいかに効率よく合理的に生産するか、という視点から過去40年間の知見を活かそうと考え、作業動線と機械化を一から見直し、理想とする環境を実現したものだった。また、従来から取り入れていた当社オリジナルの栽培ベンチを全面的に採用し、栽培容器を地面から離れたところで栽培することで、衛生的な栽培方法にもなっている。

現在は栽培過程で使用する機械の更改を逐次進めている最中。新型コロナウイルスの流行により、飲食業を含めて農業を取り巻く環境もめまぐるしく変わっている。時代に応じた研究開発を行いつつ、農業人口の減少が年々進んでいることから、人材確保の難しさを補うためにも、より一層の合理化が必要と感じている。